責任は誰にある? 〜その人は取り替え可能か〜

恥晒し。

センター試験がもう目の前だというのに、スマホをやめられない私。

そして、挙げ句の果てに、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み始める私。

 

………( *`ω´)

 

そう、たしかに、罪悪感が無いわけではない‥

「嗚呼、なんて、私は悪いやつ…」‥

 

ん??

「だったら救われるかも!?」と思う私。

 

(日本史で『親鸞』という人が出てきたのだが、彼は「悪人正機説」というのを唱えていたらしい。

悪人正機説、悪い人こそ阿弥陀仏は救って下さる、みたいな教えだったような気が…!?)

 

しかし、誘惑に負ける自分の弱さを認めずに、「一番悪いのはスマホと本だ」と思っているのだから、現実には救われようもない、私。

 

はぁ…

 

……

 

そんな不甲斐ない私ではありますが、センター過去問国語の漢文の文章を読んで、少し考えたことがあります。

 

 

「責任は誰にある?」

『壮悔堂文集』、『ロミオとジュリエットという、2つの作品に共通点を見出し、「責任は誰にある?」というテーマについて考えてみようと思います。

 

『壮悔堂文集』

2009年のセンター試験の国語で、侯方域の『壮悔堂文集』という漢文が出題されました。

 

この文章で、作者は、

「呉の国が滅亡したのは、国王『夫差』が、越の国から送られた絶世の美女『西施』に心を奪われたためである。故に、呉が滅んだのは『西施』のせいである」

とする後代の人たちの認識は誤りであるとし、

「呉の滅亡は『西施』のせいではない。

『夫差』がしきりに国外に出兵し、国の守りが疎かになった結果、越の侵攻を防ぐことができなかったためである。」

と論じています。

 

最終段落では、軍事力の行使による自滅を警告して、作者は文章を締め括っていますが、私はこの文章を読み、「責任問題は、根幹から考えることが大事である」ということを強く実感しました。

 

↓訳の一部

西施は呉の国を滅ぼすほどの能力を持っていたわけではない。

にもかかわらず後の時代の人が呉を滅ぼした罪がもっぱら西施一人にあるとするのは、誤った判断である。

かりに呉王が、宰相の伯嚭の中傷を信じ込んで伍胥を殺すようなことをせず、内政においては国の政治を正しい方向に導き、外交においては呉を敵視する勢力に対する警戒を怠らなかったとしたら、西施は一宮女にすぎないのであるから、何もできなかったはずだ。 

 

たしかに、「『西施』の美貌」は呉が滅亡した理由の一つではあるのかもしれません。

しかし、そもそも論、「『西施』の美貌が呉の滅亡の要因の一つとなった」理由を考えると、「呉王『夫差』の性格」の方に原因があるのではないか、ということでしょう。

 

私は、この文章を読み、高校の授業でおこなった「ロミオとジュリエット裁判」を思い出しました。

 

ロミオとジュリエット

高校の授業で、「ロミオの死に対するジュリエットの責任の有無」を争点にした模擬裁判を行いました。

 

ロミオとジュリエットのあらすじ(簡単に)

ロミオは、たまたま忍び込んだパーティーで見たジュリエットに一目惚れし、たちまち二人は恋仲になる。

しかし、ロミオが色々と(殺人など)やらかして、追放の罪に処せられる。

ジュリエットは、その状況を打破し、ロミオと結ばれるため、可死状態になる薬を飲む。

が、そのことがロミオにうまく伝わらず、ジュリエットが死んでいると思ったロミオは、毒薬を飲んで自殺。

その直後に仮死状態から目覚めたジュリエットは、ロミオの死を知り、彼女もまた、短剣を使って自殺。〜

 

これで、「ロミオが死んだのはジュリエットが可愛すぎたからだ!だから、ジュリエットのせいだ!」と言うのは、「私が勉強しないのは、スマホのせいだ!」と言うのと同じような愚かなことですね。(自虐)

 

ロミオが死んだのはジュリエットのせいではなく、「ロミオの直情的な性格」が原因だと思います。

おそらく彼は、ジュリエットと出会おうが出会わまいが、このような最期を遂げたことでしょう。

 

要するに、ジュリエットはロミオの死のきっかけの一つではあるのかもしれませんが、だからといってジュリエットに全面的な責任があるとは言えない、ということです。

 

(授業中にやった裁判でも、もちろん「ジュリエットに責任は無い」側が勝ちました。)

 

「2つの作品の共通点」

この2つの作品を「責任問題」という観点で眺めると、共通する大切な視点があるように感じました。

 

それは、「その人が取り替え可能か?」ということです。

 

「その人」とは、『壮悔堂文集』では「西施」、『ロミオとジュリエット』では「ジュリエット」のことです。

 

「西施」がいなくても呉は滅んでいたでしょうし、「ジュリエット」が居なくてもロミオは情熱的な死を迎えたでしょう。

なぜなら、他にもその物事が起こった要因が考えられるからです。

 

「西施のせいで呉は滅んだ」という文の「西施」の箇所を「夫差がしきりに国外に出兵したこと」と置き換えても、

「ジュリエットのせいでロミオは死んだ」という文の「ジュリエット」の箇所を「ロミオの直情的な性格」と置き換えても、

文は成り立ちます。

 

つまり、「その人」以外に、その物事が起こった要因が存在し得るなら、責任は「その人」にあるとは言えない、ということです。

 

…。

 

当たり前のことです。

こんなことは、私が書くまでもなく、自明のことです。

 

しかし、なぜ私がこの文章を書いたのか。

 

…。

 

「今日の模試の理科出来なかった〜、めっちゃ凡ミスしちゃってさ〜。理科は一番最後にあるから集中力持たへんねん!!」

 

「ピアノの発表会で上手く弾けなかった〜、冬は寒くて手がかじかんでるからしょうがないねん!!」

 

これらは、いずれも私の口から発せられたことのある発言たちですが、

もう、私がこの文章を書いた理由はお分かりでしょう。

 

そうです、当事者というものは、なかなか責任が自分にあることに気づけないからです。

 

ここでの例では、客観的にみると、前者は「勉強不足」、後者は「練習不足」が原因です。周囲にとって、そのことを理解するのは容易でしょう。

 

しかし、当の本人はと言うと、「自分の非が原因である」という当たり前の事実に気づかず、いや、気づいていても見ないふりをして、原因を他に求めようとするのです。

灯台下暗し、というか、昼間から懐中電灯をつけて必死に灯台の灯を探すようなものですね。

 

このような事態を避けるためには、失敗したときや悪い事態を改善させたいときは、感情を捨て去り、論理的に分析することが大切だと思います。

 

絶望のどん底で嘆き続けても、都合の良い言い訳をしても、事態は何も解決しません。

改善策を考えることに精を出すのが先決です。

 

などと、偉そうに書いた私ですが、前述のとおり、センター直前にもかかわらずこうしてスマホを触っておりますのを「スマホのせい」にしているような弱虫です。

 

さらに、深夜テンションも極まってか、「スマホが存在するのは○○のせい」というのを永遠に続け、結果「宇宙ができたのはビッグバンのせい」などと惜し気もなく厨二根性を丸出しにした上で、「私は悪くない」と結論づけているあり様です。

 

冷静になります。

スマホ」は「本」にも取り替えられます。

はい、論破。

悪いのは貴女です。

 

センターまであと何日だと思っているんですか?

 

勉強しましょう。

勉強しましょう。

勉強しましょう。

 

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