いつのまにか2020年じゃないか

もう今日で12月31日。2020年が目前に迫っています。

 

この時期になると、毎年、心の中に消化しきれない何かを感じてしまいます。

未知の世界が当たり前になっていく、というか、なんというか…

そういうことを不思議に思ってしまいます。

 

 

2019年12月31日の今の私にとって、「2020年」というのは、どこか遠い世界のお話のように感じてしまい、明日から、その「2020年」という年号を使って生活することが想像できません。

しかし、明日になったら、2020年を使い始め、だんだん使っているうちに、2020年に慣れていき、そして、最後には、当たり前になった2020年にしがみつきながら、「2021年なんて想像できないよ…」と嘆くのでしょう。

 

こういうことの繰り返しで、いつのまにか2040年になって、2100年になって、2500年になって…、時は流れてゆき、

それと同時に、今が過去になり、そして、歴史になってゆく。

そう考えると自分が大きな歴史の中を生きている心地がして、不思議な気持ちになります。

 

2019年の私にとって1019年が「歴史の中の時間」であるのと同じように、3019年の人にとっても2019年は「歴史」なのでしょうか?

1019年の人は、1019年が「歴史になっている」と聞いて、驚くのでしょうか?

 

会って話をしてみたいものです。

(それが叶わないからこそ、妄想が楽しいものであるのですが)

 

2019年の最後であるにもかかわらず、なんだかまとまりのない記事になってしまいました。

(もっと、年の締めにふさわしい記事を書きたかったのですが、これはこれで私らしくて良いかもしれない)

 

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隔世の感 at 朝カフェ

 今日は朝から、ビジネス街のとあるカフェにお世話になりました。

(日曜日だからこそのビジネス街(°▽°))

 

 普段はスタバやタリーズに行くのですが、今日は心機一転、客層の年齢層が比較的高い渋めのカフェに行ってみました。

 

 お客さんは年配の夫婦が多く、私の普段の日常会話とは全く異なる次元のお話をされていたのが印象的でした。

 

 政治の話だったり、スマホが無かった頃の話だったり、…。

 

 

 「私も将来こんな話をするのかなぁ?」

 「それで、横にいる高校生に驚かれるのかなぁ?」

 

 なんて、かなり先のことを考えて、謎の隔世の感を感じた長閑な休日でした。

かなり先、とは言っても、 高々60年ほどなので、なんだか、ほんと、不思議な気持ちになります。儚いな、と。

 

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責任は誰にある? 〜その人は取り替え可能か〜

恥晒し。

センター試験がもう目の前だというのに、スマホをやめられない私。

そして、挙げ句の果てに、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み始める私。

 

………( *`ω´)

 

そう、たしかに、罪悪感が無いわけではない‥

「嗚呼、なんて、私は悪いやつ…」‥

 

ん??

「だったら救われるかも!?」と思う私。

 

(日本史で『親鸞』という人が出てきたのだが、彼は「悪人正機説」というのを唱えていたらしい。

悪人正機説、悪い人こそ阿弥陀仏は救って下さる、みたいな教えだったような気が…!?)

 

しかし、誘惑に負ける自分の弱さを認めずに、「一番悪いのはスマホと本だ」と思っているのだから、現実には救われようもない、私。

 

はぁ…

 

……

 

そんな不甲斐ない私ではありますが、センター過去問国語の漢文の文章を読んで、少し考えたことがあります。

 

 

「責任は誰にある?」

『壮悔堂文集』、『ロミオとジュリエットという、2つの作品に共通点を見出し、「責任は誰にある?」というテーマについて考えてみようと思います。

 

『壮悔堂文集』

2009年のセンター試験の国語で、侯方域の『壮悔堂文集』という漢文が出題されました。

 

この文章で、作者は、

「呉の国が滅亡したのは、国王『夫差』が、越の国から送られた絶世の美女『西施』に心を奪われたためである。故に、呉が滅んだのは『西施』のせいである」

とする後代の人たちの認識は誤りであるとし、

「呉の滅亡は『西施』のせいではない。

『夫差』がしきりに国外に出兵し、国の守りが疎かになった結果、越の侵攻を防ぐことができなかったためである。」

と論じています。

 

最終段落では、軍事力の行使による自滅を警告して、作者は文章を締め括っていますが、私はこの文章を読み、「責任問題は、根幹から考えることが大事である」ということを強く実感しました。

 

↓訳の一部

西施は呉の国を滅ぼすほどの能力を持っていたわけではない。

にもかかわらず後の時代の人が呉を滅ぼした罪がもっぱら西施一人にあるとするのは、誤った判断である。

かりに呉王が、宰相の伯嚭の中傷を信じ込んで伍胥を殺すようなことをせず、内政においては国の政治を正しい方向に導き、外交においては呉を敵視する勢力に対する警戒を怠らなかったとしたら、西施は一宮女にすぎないのであるから、何もできなかったはずだ。 

 

たしかに、「『西施』の美貌」は呉が滅亡した理由の一つではあるのかもしれません。

しかし、そもそも論、「『西施』の美貌が呉の滅亡の要因の一つとなった」理由を考えると、「呉王『夫差』の性格」の方に原因があるのではないか、ということでしょう。

 

私は、この文章を読み、高校の授業でおこなった「ロミオとジュリエット裁判」を思い出しました。

 

ロミオとジュリエット

高校の授業で、「ロミオの死に対するジュリエットの責任の有無」を争点にした模擬裁判を行いました。

 

ロミオとジュリエットのあらすじ(簡単に)

ロミオは、たまたま忍び込んだパーティーで見たジュリエットに一目惚れし、たちまち二人は恋仲になる。

しかし、ロミオが色々と(殺人など)やらかして、追放の罪に処せられる。

ジュリエットは、その状況を打破し、ロミオと結ばれるため、可死状態になる薬を飲む。

が、そのことがロミオにうまく伝わらず、ジュリエットが死んでいると思ったロミオは、毒薬を飲んで自殺。

その直後に仮死状態から目覚めたジュリエットは、ロミオの死を知り、彼女もまた、短剣を使って自殺。〜

 

これで、「ロミオが死んだのはジュリエットが可愛すぎたからだ!だから、ジュリエットのせいだ!」と言うのは、「私が勉強しないのは、スマホのせいだ!」と言うのと同じような愚かなことですね。(自虐)

 

ロミオが死んだのはジュリエットのせいではなく、「ロミオの直情的な性格」が原因だと思います。

おそらく彼は、ジュリエットと出会おうが出会わまいが、このような最期を遂げたことでしょう。

 

要するに、ジュリエットはロミオの死のきっかけの一つではあるのかもしれませんが、だからといってジュリエットに全面的な責任があるとは言えない、ということです。

 

(授業中にやった裁判でも、もちろん「ジュリエットに責任は無い」側が勝ちました。)

 

「2つの作品の共通点」

この2つの作品を「責任問題」という観点で眺めると、共通する大切な視点があるように感じました。

 

それは、「その人が取り替え可能か?」ということです。

 

「その人」とは、『壮悔堂文集』では「西施」、『ロミオとジュリエット』では「ジュリエット」のことです。

 

「西施」がいなくても呉は滅んでいたでしょうし、「ジュリエット」が居なくてもロミオは情熱的な死を迎えたでしょう。

なぜなら、他にもその物事が起こった要因が考えられるからです。

 

「西施のせいで呉は滅んだ」という文の「西施」の箇所を「夫差がしきりに国外に出兵したこと」と置き換えても、

「ジュリエットのせいでロミオは死んだ」という文の「ジュリエット」の箇所を「ロミオの直情的な性格」と置き換えても、

文は成り立ちます。

 

つまり、「その人」以外に、その物事が起こった要因が存在し得るなら、責任は「その人」にあるとは言えない、ということです。

 

…。

 

当たり前のことです。

こんなことは、私が書くまでもなく、自明のことです。

 

しかし、なぜ私がこの文章を書いたのか。

 

…。

 

「今日の模試の理科出来なかった〜、めっちゃ凡ミスしちゃってさ〜。理科は一番最後にあるから集中力持たへんねん!!」

 

「ピアノの発表会で上手く弾けなかった〜、冬は寒くて手がかじかんでるからしょうがないねん!!」

 

これらは、いずれも私の口から発せられたことのある発言たちですが、

もう、私がこの文章を書いた理由はお分かりでしょう。

 

そうです、当事者というものは、なかなか責任が自分にあることに気づけないからです。

 

ここでの例では、客観的にみると、前者は「勉強不足」、後者は「練習不足」が原因です。周囲にとって、そのことを理解するのは容易でしょう。

 

しかし、当の本人はと言うと、「自分の非が原因である」という当たり前の事実に気づかず、いや、気づいていても見ないふりをして、原因を他に求めようとするのです。

灯台下暗し、というか、昼間から懐中電灯をつけて必死に灯台の灯を探すようなものですね。

 

このような事態を避けるためには、失敗したときや悪い事態を改善させたいときは、感情を捨て去り、論理的に分析することが大切だと思います。

 

絶望のどん底で嘆き続けても、都合の良い言い訳をしても、事態は何も解決しません。

改善策を考えることに精を出すのが先決です。

 

などと、偉そうに書いた私ですが、前述のとおり、センター直前にもかかわらずこうしてスマホを触っておりますのを「スマホのせい」にしているような弱虫です。

 

さらに、深夜テンションも極まってか、「スマホが存在するのは○○のせい」というのを永遠に続け、結果「宇宙ができたのはビッグバンのせい」などと惜し気もなく厨二根性を丸出しにした上で、「私は悪くない」と結論づけているあり様です。

 

冷静になります。

スマホ」は「本」にも取り替えられます。

はい、論破。

悪いのは貴女です。

 

センターまであと何日だと思っているんですか?

 

勉強しましょう。

勉強しましょう。

勉強しましょう。

 

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クリスマス愛好家

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今日はクリスマスです。

 

クリスマス。

 

街は華やかな装飾を身に纏い、街行く人もどこか心が弾んでいる様子。

しかし、そんな華やかさとともに、1年の終わりの哀愁の念も感じられ、戦場のメリークリスマスの物悲しい旋律が心に染みる。

 

こんな、光も影も兼ね備えた「クリスマス」という季節が、私は大好きです。

 

(小説っぽい文章を書こうとするも失敗(*_*))

 

そんなクリスマスの季節も今日で終わるのかと思うと、名残惜しい限りです。

1年中クリスマスではないからこそ、クリスマスの季節を楽しめる、ということは承知しているのですが、それでもやはり、「ずっとクリスマスの季節だったらいいのになー」と思ってしまう、今日この頃であります。

誰かに価値を提供すること

今日も塾の冬季講習がありました。

 

今日からの4日間は、二次試験対策HG講座(4時間の講座)2コマ、計8時間授業を受けなければなりません。

 

「やだなぁ、心身の疲労が溜まりそう…」と思ってしまう、怠惰な私であります。

 

しかし、そうは言っても、センター前のこの時期は、塾で講座をとらなければ二次試験対策をする気にはなりません。

 

(2次対策をする気になれないのは私の意思が弱いせい。だったら、塾を頑張るしかないかー。)

 

しょうがないですね。

 

………。

 

ところで、塾の講習をとっていると、どうしても気になってしまうことがあります。

それは、講座によって、生徒の数が全く異なることです。受講者100人越えの講座(私が今日とった講座も120人くらいいました)もある一方、20人にも満たない講座もあります。

 

なぜ、このようなことが起こるのか、と言いますと、やはり、「先生の人気度」が大きな原因であると思うのです。(もちろん、講座内容も受講者の数に影響します)

 

今日、私は、受講者約120人の講座を受けたのですが、どうしてこんなに大勢の生徒がこの講座をとるのかについて、授業が始まって、もう、ものの数分で納得しました。

本当に説明が分かりやすいのです。いや、分かりやすい、というよりも、授業を受けていて楽しいと感じるのです。

まるで、ドラマを観ているよう。

冗談抜きで、休憩時間すら惜しいくらいでした。

 

授業後もしばらくは、その先生の授業能力に、つくづく感動していました。

 

 

この先生のように、多くの人を惹きつけるものを提供できる人って素敵だなぁと思います。

その能力は、いずれはその人の価値やその人の生きる意味にもなっていくのでしょう。

 

翻って、

自分も将来、誰かに価値あるものを提供できるような人になれるだろうか。

そして、自分の生きる意味を見つけることが出来るのだろうか。

 

おそらく、今、私が勉強している理由の一つも、「誰かに価値あるものを提供するため」だとは思うのですが、いくら勉学に勤しんだとしても、そのような人になれる自信は全くありません。

 

やはり、大切なのは才能なのか?

いや、努力か?

いったい、私は、どう生きればよいのだろうか?

 

きっと、それを考えていくことが人生において大切なことなのでしょう。

 

あの神授業をする先生は、これまで、何を考え、何をやってきたのだろうか。

知りたいものです。

 

<追伸>

将来の自分へ。

あなたは、今、

誰に、何を、提供していますか?

 

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意外と嫌われないタイプ

伊坂幸太郎さんの「砂漠」を読んだ感想などを書こうと思います。

 

「*あらすじ(簡単に)」 「*感想」 「*西嶋についての考察」 「*意外と嫌われないタイプについての普遍的考察」 「*まとめ」 「*補足」

の順に書きます。

 

砂漠 (実業之日本社文庫)

砂漠 (実業之日本社文庫)

 

*あらすじ(簡単に)

冷めた性格で、周囲を見下す傾向のある「北村」が視点の物語。

「北村」は大学入学後、軽薄で女好きの「鳥井」、何事にも真っ直ぐだが正義感の強すぎる「西嶋」、とにかく美人の「東堂」、超能力の使える「南」という4人の仲間と出会う。

彼は、序盤では、周囲を冷静に分析するような、所謂「鳥瞰型」の性格だったが、仲間と色々な物事を経験していく中で、だんだんと主体的に物事に関わるようになり、派手ではないものの、大学生活を謳歌する。

 

*感想

私はまだ高校生なので、「大学生」という、親からは自立しているものの、社会的には自立していないような、不安定な場所にいる人の精神状態がどのようなものなのか想像がつきません。そのため、北村の感情の理解には苦戦しました。

また、最後の学長の言葉の『学生時代を思い出して懐かしがるのはいいけれど、あの頃に戻りたいと思ってはいけない』という言葉も、ピンときませんでした。(高校3年生として、この言葉に何も感じないのは、高校生活を楽しんでいなかった証拠かもしれませんが…)

 

そんな世間知らずの私ですが、読後に何も感じなかったわけではありません。

本作の主題とは全く異なるとは思いますが、1つ、不思議に思ったことがありました。

 

それは、「西嶋が避けられていないこと」です。

 

本作で、西嶋は、

「世界で戦争が起きているのに、日本の若者は無関心。自分達さえ良ければ良いと思っているのか?」

だとか

「目の前で泣いている人間を救えない人が世界を救えるはずがない」

などと言っています。

 

え、、、いや、いや、、

こういう、自分だけが世界の矛盾に気付いていて、自分こそが世界の救世主であるかのように振る舞う人って、正直、、

 

イタイです、イタイです、イタイです。

 

もし、現実世界に西嶋のようなタイプの人がいたら、おそらく、避けられて、あまり友達が出来ないのではないかな、と思ってしまいますが、残念、彼は、友達もでき、そして、恋人もできています。

 

どうして、こんなにイタイことを言う西嶋も、それなりに大学生活を楽しむことが出来ているのでしょうか?

 

以下で、この理由について考察してみようと思います。

 

*西嶋についての考察

西嶋はたしかに、イタイことを言う人物です。しかし、そんな彼が避けられていないのは、おそらく、「矛盾していない」からだと思います。

 

『たぶん西嶋は口先だけではなくて、努力して結果を出すからだ』

『たぶん、西嶋自身が一番、自分の無力さを知ってる気がする』

 

これらは、登場人物による西嶋評です。これらの発言から、彼は、周囲からとても誠実な性格であるように思われていることが読み取れます。

西嶋は、自分の発言に責任を持っており、言動が矛盾しないような誠実な生き方をしているのでしょう。また、誠実に生きているからこそ、自分の発言によって世界が変わることが無いことも十分に理解しているのでしょう。

 

このように、

・西嶋が、自分のイタさを分かった上で、それでも、イタイ発言に恥じない行動をしていること(=言動が矛盾していない)

・このことを周りの人も理解していること(=西嶋の性格と、西嶋の性格に関する周囲の見解が矛盾していない)

という、2つの「矛盾していない」ことが理由でイタイことを言う西嶋も意外と嫌われずにうまくやっているのだろうと思いました。

 

(ん?でも、どうして、「矛盾」していなかったら嫌われないのだろうか…?)

 

この疑問を解決すべく、今からは、現実世界で意外と嫌われないのはどのようなタイプの人なのかを考察していきたいと思います。

 

…………………………………

一応申し上げておきますが、私自身、人のことをイタイと思ったりはするものの、「嫌いな人」というのはあまりいません。

強いて言えば、私の悪口を言う人や、私の人生を全否定する人くらいでしょうか。(そんなことを言われると悲しい気持ちになってしまうからです泣)

 

このような文章を書いているのも、私が甚だしく人間音痴で、この世界の人はどのような人のことを嫌いになったり、逆に、好きになったりするのだろうか、と疑問に思っているからに他なりません。

 

そんなこんなで、以下に述べることは、全くの見当外れで、単なる私の妄想かもしれませんが、しばしお付き合いください。

(こういうのを心理学の用語ではハンディキャッピングって言うんでしたっけ)

…………………………………

 

*意外と嫌われないタイプについての普遍的考察

避けられそうな性格であるにもかかわらず、意外と避けられていない、西嶋のようなタイプについて考えてみます。

 

まずはじめに、

私の周りにいる、避けられそうな性格である人を、

①実際に、避けられている人(=然るべき人)

②思いの外、避けられていない人(=意外な人)

の2タイプに分けて、その相違点を考えてみます。(※補足A)

 

①然るべき人

・作為的であることが丸わかりの天然キャラ

・他人にとってはありがた迷惑な偽善者

・凡人なのに、自分は天才だと信じている人

・やれば出来ると信じているが、何もやらない人

 

②意外な人

・作為的ではない変人や天然キャラ

・生来の怠惰な性格ゆえ、何事にもやる気のない人

・人からの評価を気にせず、自分の信念に従って、行動する人。そのため、たとえ、人から嫌われるようなことでも実行する人。

 

結論ありきで書いた感が否めませんが、

やはり、「①然るべき人」と「②意外な人」の相違点は、

「その人の、自分に関する見解と周囲の見解とが矛盾しているか否か」

それと、

「その人が、自分を良く見せるために、意図的な行為をしているか否か」

だと思います。

 

「①然るべき人」は、自己陶酔していたり、自分の能力を過大評価したり、と自分自身のことを正しく理解していない、若しくは、自分の能力の上限をある程度は理解しているものの、そのことを認めることが出来ず、弱い自分を覆い隠し、取り繕っているように感じます。

 

一方、「②意外な人」は、自分のことを正しく理解しているか否かはさておき、周囲に本来の自分自身の姿をさらけ出しているように感じます。

 

このように、意外と嫌われないのは、②のように、取り繕ったりせず、ありのままの自分でいる人だと思います。(※補足B)

 

しかし、ありのままの姿でいる人は、絶対に嫌われないか、といいますと、そういうわけでもないと思うのです。

 

私が上で挙げた①②の人たちは、全員私の周りにいる人たちです。そうです、「好き嫌い」を判断するのも、私の周りにいる人たちなのです。

 

私は今、一応、最難関の部類に入る中高一貫校に通っており、周りの人の知的レベル(※補足C)が比較的高い方なのでは‥、思っています。(※補足D)

 

そういった知的レベルの高い人が多くいる環境では、②のような、「嫌われそうな要素を持っていても、言動に矛盾が無く、ありのままの姿を周囲に見せる人」は、

「なんかあの人変わってるし関わりたくない」

「正義を振りかざしていて鬱陶しい」

といった感情的な問題によって周囲から避けられることはあまりなく、正当な理解を得て、意外とうまくやっていけるのではないかな、と思います。(※補足E)

 

しかし、どちらかというと、感情で物事を決めるような人が多い環境では、②のような人は、その人の表面的な部分だけで判断されて、変人というレッテルを貼られたり、鬱陶しいと言われたりして、生きづらいのではないかな、と思います。 (※補足F)

 

意外と嫌われないタイプは、周りの環境あってこその存在なのかもしれません。

 

…。

 

と、薄っぺらいことを、だらだらと、偉そうに書いてきたわけですが、ここまで読んで、こう(↓)思った方がいらっしゃるでしょう。

 

「結局、意外と嫌われないタイプを分析しただけで、どうしてそのようなタイプが嫌われないかについては何も述べていないじゃないか」

 

そ、そうです、そうなんです。分かっているんです。

 

結局、私が上で述べたことは、自分の周りにいる人を「私」というフィルターを通して観察し、分析した結果、分かったことに過ぎないのです。つまり、私が今まで述べてきたことは「○○だから嫌われない」ではなく、「嫌われないなら○○」という、意外と嫌われないための条件です。

 

故に、西嶋が嫌われていない理由も「『嫌われないなら○○』の、○○の条件に当てはまるから」程度のもので、とても主観的な理由です。

 

なんだかよくわらなくなってきたので、

まあ、「好き嫌いは人それぞれ、人の心は難しい」くらいで止めておこうと思います。

 

 

眠くなってきてしまったので、もうそろそろ、この記事を締めくくろうと思います…。

 

 

*まとめ

世馴れしていない高校生の分際で、偉そうに人間分析もどきをしてしまいましたが、世馴れしていない者なりに考えたことをまとめてみようと思います。

 

「周囲の人に嫌われる」という状態は、周囲の人に不快な思いを抱かせることでもあり、周囲の人にとっても、自分にとっても、あまり気持ちの良い状態では無いはずです。故に、そのような事態はなるべく避けた方が良いでしょう。

 

そのためにも、自分の能力と周囲の人の知的レベルを正しく理解した上で、出来る限り、ありのままの姿で生きることが大切なのではないかと思います。

 

 

まあ、

しかし、

受験生である私は、嫌われるとか嫌われないとかを論じる以前に、

来春、大学に全落ちして

「大学に現役合格したからといって、みんながみんな楽しい大学生活を送るわけじゃないし。」

だとか

「浪人したら人生経験豊富になるし、不合格でも全然悔しくないもん」

などと、強がりを言う、

つまり、

本当は悔しいのに、全く悔しくないかのように振る舞うことでしか自尊心の保てないイタイ事態に陥り、①(然るべき人)のような人になってしまう

ことのないように、勉強を頑張ろうと思います。

 

*補足

(※補足A)

①②は主観です。私からみた「比較的多くの人から」避けられている人や避けられていない人のことです

 

(※補足B)

こんなことを書くと、下のような反論が飛んできそうです…。

「自分が天然であると気付いた人はどうするべきなのか。

ありのままの姿で居続けるために、天然であり続けるべきなのか?

しかし、そのような行為、つまり、自分が天然であることに気づいたにもかかわらず、なおも天然であるかのように振る舞う行為は、意図的な行為となり、周囲に不快感を与えるのではないか?」

えーと…、説明しにくいのですが、

「天然であることに気付いた後もありのままの姿であり続ける」という箇所が、ありのままの姿ではありません。

私の文章の拙さ故、分かりにくいかもしれませんが、私がこの記事で用いている「ありのままの姿」で優先順位が高いのは、その人のもとの性格ではなく、その人のその時に感じている性格の方です。

性格は成長とともに変わっていくものなので、元の性格はあまり重要ではないのではないかと思います。

よって、自分が天然であると気づいた人は、

「天然であることに気付く」=「普通の人の性格に近づく」

ということを理解し、自分がもともと天然であったことは特に意識せず、普通に生きたら良いと思います。

 

(※補足C)

私が考える「知的レベルが高い」人は、ブランドや肩書きといった表面的な要素だけで物事の価値を判断したり、感情で物事を決めたりするのではなく、一時的な感情に流されず、理性に従って生きているような人のことです。

 

(※補足D)

自慢のような書き方になってしまいましたが、あくまで私の主観でありますし、その上、いくら偏差値の高い学校に通っていても、所属学校はその人を表す一要素であるに過ぎず、それは自慢の要素にはならないこと、大切なのはその人自身の能力であることは重々承知しております。

 

(※補足E)

最初の方は、避けられたり、嫌われたり、といったことが起こるかもしれませんが、それでもそのような人を完全に共同体の外側に置くことがないため、「時間」が経てばうまくやっていけるのではないか、ということです。

 

(※補足F)

②のような人と過ごす「時間」を持たない、つまり、その人のことを深く知る前に、表面的な要素から判断して、関係を断ち切ってしまうため、問題が生じるのではないか、ということです。

 

<追伸>

私が、最初に、「西嶋が避けられていないのは不思議だ」と思ったことは、今考えてみると、感情論の極みで、恥ずかしいばかりです。この記事を書き終え、理性に従って考えることの重要性を再認識しました。

(おっ、5346文字!)